書かずにはいられないタイプのオタク

石油王の第五夫人になりたい

いらっしゃいませ


バイトをやめたい。切実にやめたい。なぜこんなことを言っているのかというと、明日の朝からバイトだからである。最近身をもって学んだことだが、働くというのは大変なことだ。意識はどこか彼方へと飛び、個性は押し潰され、顔には満面の笑みを貼り付けている。なぜ全力で微笑むのかというと、中途半端な笑顔を作るのが一番体力を所望するからである。働いている間、私に自我は存在しなくなる。もはや人間ですらない。その証拠に、お客様が来店して初めて口にする言葉である「いらっしゃいませ」からして、私は心を込めて発したことなどただの一度もないのである。


いらっしゃいませと口にするがそれは本当に来てくれて嬉しく彼または彼女を歓迎しているからからそう言っているのではなく、ただ単に何かを言わなければお客様との間が持たないからにすぎない。考えてみよう、これではいらっしゃいませという日本語に失礼極まりない。いらっしゃいませというのは、尊敬語である。お客様を敬い尊び、店に来てくださるという行為そのものに感謝することが、その一言に凝縮されているのである。私がいらっしゃいませいらっしゃいませと壊れたファービーのように唱えるたびに、言葉の意味という意味は崩壊していき、夕暮れ時、友達の家に遊びに行くと必ずその家のおばあちゃんが、「おやよく来たね、上がりなさい、甘食でも食べていくかね」と自宅に暖かく迎え入れるような古き良き光景は消え失せ、残るのは虚ろな目をし口がだらしなく半開きの一店員である。私が口を開くたび、本来の意味は汚され、夢も希望もないただの記号にまで「いらっしゃいませ」は降格してしまっているのである。心から情けない。これは疑いようもなく伝統への冒涜、日本人の恥、非国民と言われても仕方のない所業だ。


それでは確認のために今ひとたび、広辞苑で「いらっしゃいませ」を調べてみよう。webで調べても構わないのだが、私が子供の自分にはインターネットというものは存在していなかった。というのは嘘で、私はもっぱら休日にはパソコンでサイトを漁り、一人でインターネット上のゲームに勤しむというほの暗い少女時代を過ごす中、ネットの情報がいかに信用ならないかは身を以て実感しており、今でも何かを調べる時にはまず辞書を用いる。というのは建前で、私はこれを携帯で打っているしちょうど目の前に電子辞書があり好都合なのでこれを使うことにする。


こんなことをつらつらと語っていたが、私の電子辞書に広辞苑は入っていなかった。このショックは地味に大きい。これから某クイズ番組を見ていても、広辞苑に載っている〇〇で始まる言葉をcm中に調べることができないのである。私はあふれる悲しみを抑えつつ、他の国語辞典を参照することにした。


デジタル大辞泉で調べてみると、「いらっしゃい」は載っていたが「いらっしゃいませ」は載っていなかった。


いらっしゃい

((「いらっしゃる」の命令形))

1 おいでなさい。「こっちへー」「まだ寝てー」

2 歓迎の心持ちを表すあいさつの言葉。「いらっしゃいまし」の略ともいう。「やあー。どうぞお上がりください」


私が問題とするのはむろん2である。歓迎の心持ち、そんなものがあるわけが無い、つまり私はこの言葉を誤用してしまっている。何ということだ。むしろ仕事が増えるのだから、お客様が来なければ良いのにと毎晩星に願いを捧げている。頼む来ないでくれ、私は暇が好きだ。願わくば退屈で無為な時間を過ごさせて欲しい。しかし果てしなく続く行列がそれを許してはくれない。私は洗脳され操り人形と化した催眠術の被験者のように、満面の笑みでレジを打ち続けるのである。いらっしゃいませとスピーカーのように繰り返しつぶやきながら。


3 日本国において、店員が非常に高い頻度で発する鳴き声。特に意味はない。


辞書にこう付け加えてみてはどうだろう。それでどうなるというわけでは無いが、間違った日本語を使い続けていたという罪の意識が晴れ、私の心が穏やかになる。これからは、歓迎の心持ちを表さずに、いらっしゃいませと言っても、非国民だと周りから嘲笑され指をさされることも、靴には画鋲を入れられトイレに入っていれば上から水をかけられることも、家には石を投げられ心ない言葉を浴びせられることも無いのだ。今までもなかったが。




何が言いたかったかというと、ようこそ当ブログに、いらっしゃいませ。